当事者
1984 年岡⼭県⽣まれ。⽴命館⼤学卒。
幼少期から社会の「普通」になかなか適応できず、多くの「⽣きづらさ」を抱える。⾼校では不登校になり中退。その後、⼤検を取得し、独学での⼤学受験から⼤学に⼊学。就職後、予期せぬ形で「発達障害」の診断を受ける。 そして、今までの⽣きづらさを思い出し、障害を「個性」として受け⼊れていくことになる。 発達障害の当事者会活動その他、社会の中で⾃分が出来る範囲での活動をしている。
私は、幼いころから異常なほど人見知りが強く、家に知らない人がくるといつも母の後ろに隠れているような子どもでした。そのため、学校で困っていてもその悩みを言葉にして周囲にうまく伝えることができませんでした。そして、思春期になると対人的な悩みは顕著になり、特に中学・高校では人が視界に入るだけで常に緊張してしまい、自分が人からどう思われているのかを異常なほどに怖がるようになりました。授業中には、身体全体が緊張でガチガチに固まり、頭に酸素がいかず黒板の正視すらできない状態で、結果、不登校になり高校は中退しました。
この頃は、悩みを周囲に打ち明けるのが恥ずかしく、いつも一人で行動していたため相談のその字も頭の中にはありませんでした。「どうせ僕の人生はずっとこのままで死ぬまでそうなのだろう」と中学 2 年生という早い段階で、既に人生を諦めていました。それでも自殺などする勇気もなく、現実逃避をしながら、怠惰で無為な人生を送っていました。
転機が起きたのは 24 歳の時、相変わらず社会性のないまま大学だけは卒業し、社会人となってからです。当然のごとく、務めた会社で過度な対人緊張により業務どころではなく、入社して半年後には、仕事に行けなくなりました。休職用の診断書をもらいにいった病院でよくわからないまま心理検査を受けさせられたのですが、そこで、「あなたは発達障害です」と診断されました。これは予想外でしたが本当に助かりました。このおかげで他者に自分について、「自分は発達障害で社会不適応を起こしやすく、生きづらくて困っている」と周囲に伝えやすくなったからです。
それまでは、カウンセリングなどにはなにも期待しておらず、精神科通院は、「夜寝るために睡眠導入剤をもらうため」と、「二週間に一度の外出による引きこもり予防」という名目で漠然と通うだけでしたが、次第に自分から弱さや具体的な悩みを打ち明ける機会が多くなりました。
その後、様々な活動を通じ、気づけば理解者や支援者・当事者仲間がどんどんと増えていきました。そして、今度は私が悩みを聞く側になることも多くなり、気づけば精神保健福祉士の資格を取り、今は相談支援員として仕事をしています。中学 2 年生の頃には、35 歳で生きてるとは思いませんでしたが、まだ死ぬ気配はありません。「相談」でも「愚痴」でもいいので、内々に溜め込まずに、誰かに聞いてもらうだけで人間は精神的に楽になります。確かにやみくもに相談機関に相談しても「悩みや問題」は直接的にはすぐに解決はできません。ですがその相談をきっかけに、多くの仲間やサポーターと繋がり、みんなで支えあって問題を少しづつ解決できるという経験をたくさんしてきました。
だからこそ、「苦しい助けて!」と SOS を出し、「助けてもらえる人間になるスキル」はとても大事だと思います。助けてくれる仲間と繋がりを増やし、豊かに生きていけたらそれはとても素晴らしいことでしょう。そして、誰かに相談にのってもらい助けられたら、今度は、あなたが助ける側になってあげてください。人間困ったときはお互い様です。